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父親への復讐

呪い代行呪鬼会

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今でこそいろいろなハラスメントが認定されるようになりましたが、私が子どもの頃というのはそういった概念すらありませんでした。 モラハラや虐待といったものが大きな問題として捉えられる前のことだったので、当時はただただ耐えるしかなかったのです。 今、私は母と二人暮らしです。 私と母の関係は良好ですが、家族関係は結構複雑です。

そもそも母と父は親同士のつながりがあって、お見合いという形で結婚に至りました。 本当は「父」と呼ぶのも嫌なのですが、ここでは便宜上、仕方なく父と呼ぶことにします。 父は長男で、ひどく甘やかされて育ってきました。 父方の祖父は学校の先生とかで、地元ではそれなりの地位を築いていました。 田舎の権力者といったところでしょうか。 私もいろいろな勉強をしてきたので今でこそわかるのですが、父は本来であれば治療をしなければいけないレベルで人格に問題を持っています。 昔は病名などもなかったでしょうし、田舎で自分のところの長男に問題があるというのは致命的です。

父方の祖父母も見ないふり、わからないふりをしてきたのでしょう。 それが今の父というモンスターを生み出しました。 父は若い頃に祖父を殴ったことがあるそうで、殴られて以降、祖父は父の言いなりだったそうです。 それをいくつになっても、父は自慢げに話していました。 父は母と結婚する前に、女性を妊娠させています。 「歩く下半身」「歩く性器」と呼ばれていたことを考えれば、どのようなことをしでかしてきたのかは想像がつきます。 女性を妊娠させて、堕胎させるのに祖父がかなりの大金を積んだそうです。

その後、母と見合い結婚となり、母の前に付き合っていた女性は母に対して嫌がらせをするようになりました。 実は私も小さい頃、相手の女性と話をしているのです。 「お母さんはいる?」と聞かれ、母に代わると電話は切れていました。 無言電話による嫌がらせは引っ越しをしても引っ越しをしてもやまず、精神がおかしくなるような頻度でした。 父はそれに対して「俺のことが忘れられないんだなぁ……」などと言うのです。 妻である母や子どもである私へ危害が及ぶということへの心配はありません。

また、父はパチンコ狂いでもありました。 新聞記者という仕事柄、時間に融通が利くため、暇さえあればパチンコに行っていました。 基本的に負けて帰ってくる上に、生活費を当たり前のように使い込むのです。 母が私を連れて野菜などを買いに行っていると、その間に家に帰ってきて、母が生活費として隠しているお金をごっそりと盗んでいくのです。 買い物から帰ってくると、空っぽになったお財布が床に落ちているということが頻繁になりました。 父の言い分はいつも「俺の稼いだ金だ」というものでした。

母が私のために貯金をしていると、「人の金を勝手に盗むな」と言うのです。 こういう人間は家庭を持ってはいけないとつくづく思います。 父方の祖父母は自分の息子がパチンコ狂いという事実が受け入れられず、いつも母を責め立てていました。 父は母と私の嫌がることしかしないような人間で、私が学校で仲のいい友達ができたタイミングでわざと転勤願を出していました。 いろいろなところを転々としたのですが、一番つらかったのが大分県の玖珠というところへの転勤でした。 簡単に言ってしまうと、ここでは村八分にされました。 学校の生徒からも学校の先生からもいじめられました。

上級生には髪の毛を引っこ抜かれたこともありました。 友達なんてできるはずがないのに、父は「家に友達を呼べ」「友達はいないのか」と毎日のように責め立てるのです。 気が狂いそうでした。 仕事で取材先の山奥に連れていかれたと思ったらその場で置き去りにされたこともありました。 ある日、学校で習っていない計算問題を突然出され、答えられないと「馬鹿は嫌いだ」と怒鳴られ、殴られました。 真冬に冷たい水を頭からかけられたこともあります。 骨を折られたこともあります。 こういったことが定期的に起こり、常にビクビクしていました。

家族で出かけているときにも、父は人目を気にすることはありません。 お店の方には常に偉そうにしますし、どこでも大声で怒鳴ります。 気に入らないことがあれば今で言うところのあおり運転をしていました。 母や私が一緒に乗っている車で、です。 要は、母や私が怪我をしようが、死のうが関係ないわけです。 何度目かわからない転勤で、都市と言えるところに引っ越しました。 そこで父の上司のつながりで、マンションを購入しました。 母と私は「これでもう転勤はない」とほっとしていました。

ただ、それでも父は転勤願を出しました。 マンションを購入したばかりなのですから、無人にするわけにはいきません。 結果的に、父だけが単身赴任という形で出ていくことになりました。 初めて母と私の2人暮らしになって、「こんなに快適なのか」と驚いたことを覚えています。 たまに単身赴任先から帰ってくると私の部屋に父の脱ぎ捨てたズボンなどが落ちており、ひどく気持ちが悪かったです。 酒臭い父が帰ってくる日は本当に地獄でした。

それほどまでに、父のいない生活が快適だったのです。 いつだったか、父が酔った勢いで「離婚だ!」と言い出したことがありました。 母と私は「やったー!」と思い、離婚に向けての話を具体的に進めようとしました。 父はてっきり「離婚だけはやめて」と縋ってくるくらいに思ったのでしょう。 母と私の反応が気に入らず、今度は「離婚しない」と言い出しました。 本当にこの人は人の嫌がることしかしないのです。 ただ、かといって元通りというわけにはいきません。 単身赴任のこともありますし、とりあえずは別居をすることになり、父が平気で約束を破るため、公正証書というものもきちんと作成しました。

これによって母と私は父から最低限の生活費を受け取りながら、暮らせるようになりました。 母は体が弱く、働くことができませんでしたし、当時は私も学生です。 それを考えると、本当に最低限の生活費でした。 母と私が2人で暮らす生活費よりも、父がひとりで暮らす生活費のほうが多かったのですが、父はそれでも少ないと文句ばかりで、当たり散らしていました。 父にしてみれば、養育費でも何でもなく「金をくれてやっている」という感覚だったのです。 実際に給食費を払っているだけのことにふんぞり返るような人でした。

母はどうにか手に職をつけようと限られた生活費の中で資格取得を目指していたのですが、あとは試験を受けるだけというタイミングで「死ぬかもしれない。病院に来てくれ」と父からの連絡が来ました。 母は資格取得を諦めて、遠く離れた父の単身赴任先へ向かうと重病でも何でもなく、薬の飲み合わせで湿疹ができただけでした。 ゴミのような人間のゴミのような理由で、母のそれまでの努力が水泡に帰したのです。 父は母と私の人生をとことん邪魔するだけの存在でした。 私が大学を卒業するまでは現状維持で、その後、離婚の話し合いを進めるという約束だったのですが、私が大学に入学した途端に父は調停を申し立てました。

これも情けないことに父が考えて申し立てたのではなく、祖父の差し金で父が申し立てをおこないました。 後になって知ったことですが、このとき、父には愛人がおり、その愛人と再婚するための申し立てでした。 大学を卒業するまでは……と考えていた私たちにとって、調停の申し立てはまさに青天の霹靂でした。

申立書の内容も本当に信じられないものばかりでした。 母が運動会も授業参観にも行かない、与えるのは菓子パンだけ、子どもが洗脳されている……よくもまぁここまで嘘が思いつくなというような内容で、驚くべきことに父の中ではそれが真実になっているのです。 運動会も授業参観にも来なかったのは父ですし、それこそ父が私に与えるのは菓子パンやお菓子程度でした。 泣き叫ぶ子どもからお小遣いをむしり取りパチンコで負けては当たり散らし、喘息を持っている子どもがやめてといっても目の前でタバコをスパスパ吸うような人間が何をさも子どもを思っているかのような嘘八百の申立書を書いているのか。

母は体がきつい中でも精一杯のことをしてくれました。 だからこそ、私は母を尊敬しています。 父はこのように嘘八百を並べ立てて、それが真実であるかのように自分自身で思いこみ、それを周りに信じさせるのがとてもうまい人間でした。 そのため、被害者である母と私が悪く言われるようなことばかりでした。 父から依頼を受けた弁護士の先生も最初はそれが見抜けなかったようですし、調停委員の方も最初は父の申立書の内容を鵜呑みにしていました。

ただ、話を進めていくとボロが出てくるようになり、父側の弁護士も匙を投げ、あからさまにやる気をなくしていき、調停委員の方もこちらの意見に耳を傾けるようになっていきました。 当たり前です。 父が言っていることはすべてが嘘なのですから。 ただ、結局、母と私はほぼ無一文の状態で追い出されました。 マンションに残るなら借金を背負え、今後受け取る年金をすべて放棄しろととにかくこれから先お金に困るように困るように父は物事を進めていきました。

笑えることに、父の保険金の受取は父本人だとか。 その後、離婚が成立し、母と私はとても苦労しました。 母の体はどんどん悪くなっていく一方ですし、私も就職氷河期で思うように収入は得られず、私も体を悪くしていきました。 父は愛人と再婚するつもりだったのに逃げられたらしく、母方の祖父母を通して私たちに接触しようとしてきました。 父は気持ち悪いことに、私とご飯を食べに行くことに異常にこだわりを持っていました。 あまりにもしつこく、私が直接「体が悪いから無理だ」と言うと今度は体が悪いことを責め立てるのです。

父が私たちのことを心配するということはあり得ません。 特に、私は父が家族ごっこをするための道具でしかありません。 レンタル彼女なんてものがありますが、レンタル子どもといったところでしょうか。 偽りの家族の中で父親面をするための道具なのです。 私がどれだけ父を嫌っているのか、父はまったくわかっていません。 ここまでしておいて、嫌われているとも思っていないのです。 常識が通用しない相手というのは本当に恐ろしいです。 異常者でしかないのですが、父は新聞記者様としてそれなりの地位を築いています。

人の人生をめちゃくちゃにしておいて、自分は悠々自適の生活を送っているのです。 私はそれが許せません。 最近の映画やドラマ、アニメなどでは結構グロテスクな拷問の描写も見かけます。 もともとは苦手なのですが、私は父を拘束して同じようなことをしてやりたいという気持ちがあります。 泣いて詫びるまで痛めつけ、できる限りの苦痛を与えながら殺してやりたいと思うのです。

ただ、父のような人間を手にかけて捕まるのは馬鹿らしいとも思います。 だからこそ、呪い代行という選択をしました。 日本呪術研究呪鬼会の方は本当に親身になって話を聞いてくださいました。 私の父に対する感情というのは、もはや好き嫌いというレベルではありません。 そういった感情は今まで誰にも話したことがありませんでした。 話を聞いてもらえただけでも、どこか浄化されたような感覚になりました。 この世の苦しみを父だけに背負わせたいくらいの気持ちで呪い代行をお願いしたのが伝わったのか今、父はそれなりに苦しんでいるようです。 病気をしているものの、今、父の周りには誰もいません。

高齢となった父方の祖父も苦しみ抜いてすでに死んでおり、祖母のほうはボケてしまってただ座っているだけの状態です。 母方の祖父母はもう施設に入っているので、父は私たちに接触したくともできなくなっています。 愛人もいない、実家にも頼れない、私たちにも連絡が取れない……本当の孤独です。 私が望んでいるのは父がとにかく苦しむことです。

改心して、死ぬ前に保険金の受け取りを私にしてくれればいいのですけど。 今さら父に人間としてどうのこうのというのは期待していません。 万が一、億が一、死ぬ間際になっていい人になったとしても何の意味もないのです。 少しでもお金になってくれれば、私の溜飲も下がるというものです。

※この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件とは一切関係がありません。

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